「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」
この題名は、エーリッヒ・フロムによって書かれた『愛するということ』の一説である。
そもそも、他者を本当の意味で愛するというのは極めて難しいのではないだろうか。「愛する」ということを意識的に説明できる人は極稀だろうが、生きているものは皆誰もが「愛する」ことを知っている。
他者との関係とは、全てこの「愛する」という関係から成る。
しかし、時にはそんな相手にも敵意を向けることがある。愛情と憎しみは同じだからであるが。。
敵意を持った自己中心的な態度や行動をとったときには、たった一回の出来事で大きく関係が変わることもある。そうなってから初めて気が付く、「もっと上手くできたのに」と。
そんなときにはもう既に遅く、相手との関係性は修復不可能のケースが多い。
※相手との信頼関係やその時々の状況によって大きく変わってくる。
あなたはきっとこうするだろう、「どうしてあんなことをしたのか!」「こんなことするんじゃなかった」と自分を責め立てる。もしくは、「もっと私のことをわかってくれなかったアイツが悪い」と相手を責めるか、または無関心かもしれない。
今回の文章は、一つ目の罪悪感に溺れて苦しむ人へ向けたものである。
唯一の罪悪感から救われる方法、いやその前に罪悪感とは何なのだろうか。なぜ起こるのだろうか。
その一つには、やはり自分への罰を与えるためなのだろう。罰と言うのは、何か悪いことをしたときの制裁だ。つまり、「悪いもの・こと=罰せられるべき」という社会的価値観?いや本能??それだけならまだしも、その対象が自分となれば、また加えるのも自分…であるならば、それは一体どういうことなんだろうか。
そこには「自分=悪」という認知がある。近くの悪(というものは無いのだが)を見て、自分全てを悪だと捉える。そんなことが起きているように思う。
ただ、よく考えてみて欲しい。悪(=欠点)と思っている要素は、そのときまでよく気づかなかったことではないだろうか。もしくは知っているけれども、無意識だったりとか。経験し終えた出来事を通してやっと見えてくるものだったりもする。見えた先には、「こんな自分嫌だ」と思うか、「それも自分の一部」と思うか。罪の意識が強い時には、前者が強く出る。でも、いくら理性的な手立てを打ったところで、その要素から逃れることはできない。何度も何度も蘇る罪悪感を一つ一つ冷静に見てくならば、その欠点は紛れもなく私の要素の一つであることを認めざるをえないだろう。このとき、ようやく自分の心は安心する。安心、穏やか、平穏、安らぎ…。もっというならばそれこそが愛だと。
この状態であるとき、私は「自己を愛する」と呼ぶ。
よく言われる「ありのままを受け入れる」というやつだ。
でもまたしばらくすると罪悪感が出てくるだろう。「本当に受け入れて良いのか」「いや、それでもあのときしたことは消えないし、その人との関係性は取り戻せない」と。信じきれないのだ、受け付けないのだ、自分の大切な一部を。
そういうときは、そのままゆっくり向き合えばいい。涙を流してもいい、思いを書き連ねてもいい、言葉にしてもいいだろう。大切なのは、罪悪感が消えるまでやり続けること。消えても消えなくても、罪悪感を消すためではなく、本当の自分のかけがえのない大切な一部を取り戻すためにやること。やり続けること。そして、何よりも自分を信じ続けること。
そうするとどうだろう、自分への許しが起きる。あのとき選択したことは、それしかできなかったのだ。もしかしたら環境要因で取れる行動の選択肢が少なかったかもしれない、自分を押し殺してしまった反動による歪んだ愛だったかもしれない。それは相手が受け入れなかったかもしれないが、しかし自分の行為は全て許されていたのだと。それを許すのはこの私であるのだと。またそれを活かすのも私なのだ。どんな状態でも、どんなことを思っても良いんだとわかったとき、それは無条件の愛に変わる。
相手を思いやるには、本当の意味で自分をよく知り、許容していないとできないことなのだ。
なぜなら、相手に与えることができるものは、自分の中にあるもの、つまり、自分がよく知っているものだからだ。自分のことを許容できたときには、相手の悪も優しく包み込むことができるだろう。無条件に。
相手がどんな状態だろうと、「あなたを愛しているから、あなたが必要」なのだから。